旨いものを喰おう

喰いましょう。さぁ。

NAKAJIMA in YURAKUCHO (完)

「これが僕の人生?!」と中島が叫ぶ。そりゃ叫ぶさ。中島は有楽町に居た。たくさんの華美な服装をまとった人たちに囲まれて、自分はここにいていいのか、心の声が問う。「磯野ォ〜!」との呼び声に応える人影はこの群衆の中には居ない。すべての原因は野球帽をかぶった自分のみすぼらしい姿。

「くそぉ、俺も磯野みたいな家計に生まれていれば、、、!」果たしてそうだろうか。たとえ磯野がその後中島と異なる人生を歩んでいたとしても、磯野と中島の間で野球をやること、それを互いに認め合うこと、そういう少年時代を過ごしたこと、それで十分なのではないか?「くそぉぉ!アルフォートが美味いよぉ〜!磯野ォ〜!!」

さて、冒頭から登場している『中島』とは一体何であるのか?その実態はなんなのか?これを考えるにあたり、まず磯野家およびその周辺の人物を自らの身辺関係に写像する必要がある。従って、この場合の『中島』が何であるかを直接問うのは正しくなく、『中島』の取りうる値域と、その写像後の取りうる値を、自分自身の現在値と照合していく必要がある。

ではこの際、写像後の『中島』と自分自身との間の差異は、自分が歩み得たもっと素晴らしい人生、あるいは堕ち得た底辺の間のゆらぎに対応するのであろうか?答えは否である。中島と磯野家の関係がいかなるものであろうと、中島は中島であり、中島は中島然としてその人生を歩んでいく必要があるからだ。その結末は磯野を変数に取らない。